見ることの豊かさとは
                                                                            平野 到
 
 「目の裏の皮膚」「視線の彼方に」「見るという、意味」「見えるものと、見えないもの」「見ることの深呼吸」・・・。
これらの言葉は、画家である青木聖吾が自らの個展に際して付した幾つかの展覧会タイトルである。いずれも「見る」行為をめぐるタイトルであるが、青木が視覚を重視しながら、その一方でそれを特別な感覚として絶対化してしまう危うさを感じとっていることを窺わせる。例えば、「目の裏の皮膚」というタイトルからは、視覚に対して触覚的な感触を求めようとする意図をくみ取れるし、「見ることの深呼吸」からは、「見ること」を視覚だけではなく、全身的な営為として捉えようとしている姿勢が分かる。
 絵画は見られる存在として、視覚世界の中にしか結実し得ない。この自明の条件を引き受けながら、青木は視覚を、脱肉化された純粋なものに向かう特権的感覚とは考えていないようだ。むしろ、眼をあくまでも身体器官の一部として位置付け、視覚を他の感覚との齟齬も含めて相対化しつつ、そこに自らの絵画の存在理由を見出そうとしている。
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 近年の青木の絵画は、こういった作者の考え方が端的に現われている。白い下地を平坦に塗った画布に描かれているのは、数ミリほどの丸、三角、四角の図形の集合である。無数の小さな図形は赤、青、緑の三原色だけを用いて描かれ、それらが集積しながら人物などのイメージを形成している。小さな基本図形を三原色でひたすら反復する描き方は、強迫観念的というより、むしろ理知的でクールな印象が感じられるが、決してそこには硬さはない。限定した形と色でシステマティックに制作されながらも、フリーハンドによる三原色の小さな図形の粗密が柔らかな揺らぎをつくり出しており、画面にはほのかなポエジーが漂う。
 この特質は、青木の絵画が全体的な構成より、細部を起点に据えている点に由来していると言えるだろう。自己組織化する細胞の如く、小さな図形が自然に連結することによって絵画の全体像が誕生しているからだ。それは細部から全体がつくられていく絵画であると同時に、個々の図形が決して全体のなかに回収されることなく、確固たる細部として存在し続けているのである。
 この確固たる細部とは、画布に筆が触れる感触が宿る場所である。その確かな感触を一つ一つ丁寧に紡いでいくことで、これらの絵画が産み出される。だから青木は、自らの絵画を網膜的な視覚性だけに依るものとはせず、身体的な感触の濃密さを伴った表現として提示しようとしている。
 実際に作品に眼を向けると、小さな図形たちは、視覚的な滑らかさを乱す表情を画面に露わにしている。視覚の純粋性は透明で滑らかな世界に眼が浸透していく時にこそ、十全に保証される。ところが、これらの小さな図形たちは、画面の平滑さにさざ波を立て、視覚にノイズのような感触を引き起こしているのだ。視覚は他の感覚に侵され、両者に齟齬が生じている訳だが、この感覚のずれや隔たりこそ豊穣な感受性の生まれる領域であり、優れた画家はその領域に鋭敏に反応してきたのではなかろうか。
 例えば新印象派の画家、ジョルジュ・スーラもその一人であろう。スーラの絵画は光学的な色彩論に沿った点描によるものだが、その魅力は純粋な視覚世界だけにあるとは思えない。緻密な点描は確固たる細部として、視覚の透明性を逆撫でするような感触を画面にもたらしているからだ。スーラの点描の絵画には、単に網膜的な現象だけでは済まされないもうひとつの出来事、即ち絵具の粒子によるざらついた感触や物質感があり、それが知覚体験の豊かさを導いているとも言えるのだ。
 スーラのその特質は、彼のコンテによる素描に一層明確に現われている。光と影を見事な諧調で表わすスーラの素描は、支持体の紙の粗い肌理を巧みに利用して制作されている。まるで紙の肌理から光が滲み出てくるかのような、スーラのイメージの生成は、コンテと紙が触れ合う触覚的な痕跡が残されることによって達成されている。視覚の純度より、他の感覚の介入が表現上の大きな鍵になっているのである。
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 スーラの素描とは制作方法が異なるが、青木も紙の肌理を巧みに用いた素描を数多く試みている。その代表的な作例は「shadows」と題するシリーズで、人物の肖像を色鉛筆でシルエットのように描いている。上述した青木の絵画においても人型のモチーフは度々登場していたが、それらは特定の人物を描いたものではなく、図形の集積から生まれるイメージを元にしていた。それに対し「shadows」のシリーズには、それぞれモデルがいる。主に知人の写真を参照しながら、絵画と同様に赤、青、緑の三原色だけで、紙の質感を生かしながら塗り重ねて描いていく。すると、三原色を少しずつ重ねるにつれ、人物は徐々に黒い影のようになる。色鉛筆が紙に触れる度にその行為は積層されていくが、その一方、人物は視覚(見ること)を拒絶するかの如くどんどん黒くなっていくのである。それは、触れることと見ることがあたかも反比例するかのようなプロセスを示しているのだ。
 しかし、ここで着目すべきなのは、青木が人物を完全な黒い影やシルエットにしていない点であろう。良く眼を凝らしてみると人物の立体感がおぼろげに表れており、それぞれの顔の表情が残像のように画面に浮かび上がっている。塗り重ねていく手の感触が蓄積されながらも、最終的には見ることに踏みとどまろうとしているのだ。意識的にせよ、無意識的にせよ、視覚と他の感覚との葛藤やせめぎ合いが生じており、それがこの素描に独特の表現の厚みをもたらしている。微かに感じられる人物の気配から、深淵な印象を私たちが感じ取ることができる理由は、まさにそこにあるのだろう。 
 
                                                                          2014年8月
                                        
                                                          埼玉県立近代美術館主任学芸員    
         

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